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〔御朱印〕氣比神宮

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公開日:2024年11月24日
最終更新日:2024年11月24日 

1.御朱印帳


オリジナル御朱印帳です。
初穂料は御朱印1体込みで1,800円。

2.御朱印

初穂料は300円。
受付時間は、8時45分から16時45分
社殿左手の授与所で賜ることができます。


2024年に賜った通常の御朱印です。


境内社の角鹿神社の御朱印です。
書置での対応となります。

3.参拝記録

参拝日:2024年4月2日
福井県敦賀市曙町に鎮座する氣比神宮を参拝。ちょうど桜が咲き始めた時期で、とてもきれいでした。
越前国の一宮でもあります。

御祭神:伊奢沙別命(いざさわけのみこと) 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)神功皇后(じんぐうこうごう)応神天皇(おうじんてんのう)
日本武尊(やまとたけるのみこと)玉姫命(たまひめのみこと)武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

御由緒:伊奢沙別命は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され
今に神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。

上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。
仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。

文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。

明治28年3月26日、神宮号宣下の御沙汰により氣比神宮と改められた。延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に「越前國敦賀郡氣比神社七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治28年、官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。

当神宮の神領は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨(みくりや)となった。渤海使(ぼっかいし)が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護2年(766)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。

南北朝争乱の延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて足利軍を迎え奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(1570)4月大神司憲直等一族は越前国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、48家の祠官36坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家8家を復興し、社領百石を寄進された。

この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたが戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和25年御本殿の再建につづき同37年拝殿、社務所の建設九社之宮の復興を見て、祭祀の厳修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和57年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御代に至って御大典記念氣比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新。更に国家管理時代の社務所が昭和20年の戦火で焼失し、その後敦賀区裁判所の庁舎を移築、長く利用してきたが、老朽化により已むなく解体、平成23年6月大社に相応しい格式ある総木造社務所が新築落成した。(HPより引用)

4.詳細情報

住所:〒914-0075 福井県敦賀市曙町11−68
最寄駅:JR北陸新幹線 敦賀駅下車 徒歩15分
駐車場:あり
URL: https://kehijingu.jp/

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