公開日:2019年5月4日
最終更新日:2024年2月4日 御朱印追加
1.御朱印帳
御朱印なしの場合の初穂料は、1,200円。
御朱印が書かれている者の初穂料は1,700円。
2.限定御朱印一覧
諸般の事情により日程は変わることがあります。
1月1日から1月31日 | 新年記念御朱印 |
1月25日から2月4日 | 節分の御朱印 |
3月1日から3月31日 | 桃の節句御朱印 |
4月1日から4月18日 | 桜の記念御朱印 |
4月22日から5月7日 | 端午の節句御朱印 |
6月26日から7月19日 | 七夕の御朱印 |
9月1日から9月26日 | 重陽の節句御朱印 |
3.御朱印
受付時間:9時から12時 13時から16時 祭事等により変更有
初穂料:500円から
社殿右手の社務所で賜ることができます。
直書きは宮司の方がいらっしゃるときのみ。
御朱印帳に直書きしていただく場合の初穂料は500円。
書置きの場合の初穂料は300円。
新春記念御朱印でです。
2019年と2022年に賜ったものです。
1月1日から1月31日まで御領布されていました。
2024年からは切絵御朱印になりました。
初穂料は1,000円
2024年に賜った節分御朱印です。
宮司の方がいらっしゃるときは直書きですが、いらっしゃらないときは書置となります。
こちらは書置御朱印です。
2024年は1月25日から2月4日までの御頒布です。
2020年に賜った桃の節句の御朱印です。
左は直書き、右は書置きです。
3月3日から3月下旬まで
2021年に賜った桜の記念御朱印です。
2021年4月1日から4月18日までの御領布です。
右側の見開きは直書ですが、宮司の方がいらっしゃるときのみいただけます。
2020年に賜った端午の節句の御朱印です。
左は直書き、右は書置きとなります。
直書きは宮司の方がいらっしゃるときのみの対応となります。
2023年は4月22日から5月7日までの御領布です。
2020年に賜った七夕記念御朱印です。
左が手書きで右が書置きとなります。
2022年に賜った夏詣の御朱印です。
2022年は7月23日から8月21日までの御領布です。
2020年と2021年賜った重陽の節句御朱印です。
左が直書きで、右が書置きになります。
新元号記念御朱印です。
期間は2019年5月1日から6月30日まで。
見開きで書置きでの対応となります。
初穂料は300円。
4.参拝記録
参拝日:2019年1月22日
東京都大田区矢口に鎮座する新田神社を参拝しました。
お正月は過ぎていたのと、平日ということもあり、人は少なめでした。
御祭神:贈従三位左兵衛佐源朝臣新田義興公
御由緒:清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称しました。新田義興公はその七世の裔(えい)新田義貞(よしさだ)公の第二子で、幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を賜り、従五位左兵衛佐に任ぜられました。
義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元2年12月(1337年)北畠顕家(あきいえ)卿と共に鎌倉を攻略、翌3年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破されました。正平7年(1352年)には宗良(むねなが)親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫(しばら)く関八州に号令されました。
その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されましたが、武蔵(むさし)・上野(こうづけ)の豪族等に擁立されて再び東国に入られました。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗しました。そこで、国清は竹沢右京亮(うきょうのすけ)・江戸遠江守(とおとうみのかみ)らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。
竹沢は公家の少将局という身分の高い女房を自分の養女にして、義興公に側女として献じて味方を装い、江戸遠江守は所領の橘樹郡稲毛荘を没収されたので、いっしょに鎌倉で戦おうと誘い出しました。
正平13年(1358年)10月10日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかる頃、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げました。
舟はだんだんと沈みかけ、ときの声とともに、川の両岸より江戸・竹沢らの伏兵に矢を射かけられ、あざむかれたことを察し、義興公は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、主従14名は、矢口の渡で壮烈なる最後を遂げられました。
そして、同年10月23日に悪計加担の渡し守は難船水死し、江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き、落馬し、七日七晩溺れる真似をして狂い死にしました。
その後、足利基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ちたり、竹沢・畠山については、罪悪を訴える者があり、基氏に攻められ諸所流浪の末死にました。
この後も義興公の怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、『新田大明神』として広く崇め奉られました。これが新田神社の起こりです。(※大明神とは神様の中でも特に霊験あらたかな御神徳の高い神様をいいます。例 稲荷大明神や神田明神などがあります)
江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということより、松平家から「新田大明神縁起絵巻物(都文化財)」や「新田神君碑(大田区文化財)」の奉納などもあり、武運長久の守り神として、武家信仰の神社として栄えました。その後、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の不思議な篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。
また、源内は江戸一族の策謀を卑劣なやり方として、この新田神社の縁起をもとに浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」を脚色し、これが当時の江戸っ子の気質と合ったかのように、大変うけて爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の新田詣が始まりました。現在でもこの「神霊矢口渡」の一部分が各地の歌舞伎場などで上演されています。(HPより抜粋)
5.詳細情報
住所:〒146-0093 東京都大田区矢口1丁目21−23
最寄駅:東急多摩川線 武蔵新田から徒歩10分
駐車場:あり
URL:https://nittajinja.org/